「ベネッセアートサイト直島」調査

1.調査目的
香川県香川郡直島町では、過疎化・高齢化の進む中で、(株)ベネッセコーポレーションが、「アート」をキーワードとして、世界中からアートの才能系の人々をコーディネートし、「島(地域)の魅力」を高めている。その実態を、現地調査によって明らかにしたい。
2.調査方法
(株)ベネッセコーポレーション笠原良二氏へのヒアリング及び現地見学。



直島の状況


人口約3600人(15年前は約5000人)、面積8.13平方キロメートル。
産業の中心は、鉱業(後述)、漁業(ハマチの養殖等)で、いわゆる観光地ではない。
鉱業の島であり、三菱マテリアル(株)直島製錬所があり、約200~300人が働く。
(関連企業を入れると約1000人、そのほとんどが岡山県からフェリーで通勤する)
岡山県宇野港からフェリーで20分、本数は多い(片道1日13本)。三菱マテリアルもあり、通勤通学する人が多い。香川県高松市までは約1時間。離島ではあるが、交通の利便性は悪くない。
島内はエリア別になっていて、
「島の北部」は、三菱マテリアル、香川県直島環境センター等。
「宮ノ浦エリア」は、文教、生活ゾーンとして、幼稚園と保育園(一体型)、小学校、中学校及び体育館やグランド等、設計は建築家石井和紘が全て行っている。
「琴反地エリア」は、ベネッセコーポレーションが165ヘクタールの土地を所有し(後述、「地中美術館」、「ベネッセハウス」(ホテル・美術館)、「シーサイドパーク」、「琴反地海水浴場」などがある。
「本村エリア」は暮らしのエリア。直島町役場、家プロジェクト(現在4軒)がある。
全体に、落ち着いた佇まいの家が多く、歩くのが楽しい町である。お土産品店など、いわゆる観光的なものはない。(観光地化されないところが魅力的)



ベネッセコーポレーションの活動の歩みと考え方、今後目指すもの



ベネッセハウスオープンまで



背景として、三宅親連前町長(故人)は、昭和35年(50歳)から9期町長(86歳)を務め、しっかりした哲学の元に、島の振興に携わってきた。
昭和40年代に、島の振興を図るために、地主を説得し、土地をまとめ(156ヘクタール)、全体をコーディネートした開発を行うために、藤田観光に売却した。
藤田観光は、国立公園の規制等によって、大規模開発を成功させることができなかった。(事実上撤退)
1985年、三宅親連町長(当時)は、ベネッセコーポレーション(当時は福武書店)の創業社長・福武哲彦(岡山県出身)と出会い、「直島の南側を清潔で教育的な文化エリアとして開発したい夢」を語り、意気投合した。
ベネッセコーポレーションは、「世界の子どもが集える島」を目指し、1985年に、藤田観光から土地を買収。当初は、試験的に福武書店の社員と子どもたちのキャンプを行いことから活動が始まった。
1986年に創業者の先代社長は亡くなったが、2代目社長・福武總一郎(現直島福武美術館財団理事長)が開発を続行。
子どもたちのサマーキャンプ用に、パオ(現在も使用)やドイツテント(古くなって不使用)整備し、10数年間、教育キャンプを行ったが現在は行っていない。
書店「福武書店」から、ベネッセという会社名にしたが、その意味はラテン語で「よく生きる」であったために、会社の内容が分かりづらくなり、自問自答することになった。
「よく生きる」の概念を、具体化するために、「現代アート」を取り入れることにした。現代アートとの会話は、現代の矛盾や本質を突くものがあると考えたから。
1989年の国際キャンプ場に引き続いて、1992年に、現在の「ベネッセハウス」が完成した。
ベネッセハウスは、現代アートの美術館(建築家安藤忠雄が設計)が目的ではあったが、島には宿泊施設がないことや経営面を考慮して、ホテルを併設して作った。
ホテルも作ったので、中途半端なものとなった。本当はホテルがしたかったのではないかとも疑われた。
そのことが、「地中博物館」や本村での「家プロジュクト」につながっていく。
安藤忠雄を選んだ理由は、地方から情報発信したいと当時は考えていた人だから。そして、直接本人に頼み、最初の案には地域の個性が出ていないと直してもらったのが、現在の「ベネッセハウス」である。なお、現在彼は東京大学教授である。



家プロジェクト



ベネッセの土地だけでは、ただ美術館の施設になり、「島全体で美術館を体験」をキーワードにして、島の活性化に取り組むことにした。
2001年、10周年記念として、現代アートイベント「The Standard」(これこそスタンダード)を、宮ノ浦地区で、13個所において、100日間行った。
このときの成果は、アートボランティア(足代、寝場所、食事の提供)を募集したところ、延べ1000人以上が参加した。東京などから若い女性が9割、島の住民は50歳以上のおじさんたちも参加し、相互にとって楽しい交流となった。現在も、「地中美術館」では、アートボランティアが多く参加している。
本村地区での「家プロジェクト」は、地域の中に「空き家」があり、寂れていくが家主が家屋を売らないので困っていた。たまたま、売家が出たので、それを買い、現代作家が「古いものを残し、新しいものを入れる」をコンセプトに、民家を修復・保存するために、作品を制作・展示をした。見応えがあり、多くの人が毎日歩いて訪ねている。
現代作家は、宮島達男の「角屋」、ジェームズ・タレルと安藤忠雄の「南座」、杉本博司の「護王神社」、内藤礼の「きんざ」(最近水害にあったので見ることはできなかった)、どれもみな経験したことがない面白さがあった。現在、新しい空き家が手に入ったので、建築家の隈研吾の作品などが進行している。
「家プロジェクト」を見に来る人のために、普通の民家が「トイレ貸します」の札を下げて来訪者の便宜を図っている。また、島民による「観光ボランティア」が島の歴史や文化を案内してくれる制度もある。(1回1人100円)。12、13人いて、自身の誇りになっているという。今度行くときには、体験してみたい。
2004年、埼玉県から来た若い女性、大塚ルリ子が、「直島が気に入って、住み着きました。珈琲を出されたときに、コーヒー缶で、生ぬるかったので、温かい珈琲を出す店を造りました」と語るように、新住民も現れている(カフェまるや)。
ベネッセ(笠原さん)は、いわゆる観光地にはしたくないと思っている。町並み保存は町がすることで、ベネッセは、アートから地域を楽しく発見していきたいと考えている。
「家プロジェクト」は、大御所主義にはしたくないで、若い人の参加も考えている。



地中美術館から未来へ



2004年7月、安藤忠雄の設計した「地中美術館」は、クロード・モネの「睡蓮」(後期の作品で印象派というより抽象的な絵である)、光の作家ジェームズ・タレルの部屋は不思議な空間感覚になるここだけしか味わえない、未体験ゾーンは面白かった。ウォルター・デ・マリアのスペースは、現代の宇宙感覚の神殿で、空と大地がつながって、祈りを捧げたくなる固有の空間を形成している。こうした美術館は世界でも珍しいと思う。
ベネッセハウスと地中美術館の入場者数は、約6万から7万人。キャンプ場は、約2万人が利用した。外国人客は約10%。欧米人が多く、欧米の美術館を支えるボードメンバー等の視察先としても使われている。
ビジネス面で見ると、減価償却はできないが、「ランニングコスト」は、売上げ約4億円でまかなっている。
ベネッセとしては、昨年雑誌や新聞、テレビなどに、400件以上出て、PRとしては数億円分になるとの考えもある。ベネッセ社員の直島研修や学生の求職活動にもつながっていて、「よく生きる」の意味を体験的に分かる場ともなっている。
福武会長は、「経済は文化の僕(しもべ)だ」と言っている。ここでの経営は、広告宣伝費+会社への理解(ブランド形成)でもあるという。
現代アートには、「小さくてもいつも変わり続ける、終わりなき活動を目指している」、精神があるそうだ。
建築家安藤忠雄と現代アーチストとのコラボレーションは、現地で作っただけに動かせず、また、そこだけの作品や空間が生まれ、今までにはない新鮮さがあった。
今後の目指す方向性は、国(地方整備局)の都市再生モデル調査で、「瀬戸内海アートネットワーク(構想)」を提案している。内容は、備讃瀬戸エリアのアート、「イサム・ノグチ美術館」、「猪熊弦一郎現代美術館」などをネットワークして、活性化を図るものらしい。
ベネッセハウスの部屋数が現在16室であるので、あと50室、100人程度宿泊できるようにしたいと、環境デザイナー今井澄子の力も借りて、事業を進めている。



参考資料に見る「ベネッセアートサイト直島」の考え方



「直島は、『自分が主体となって何をすべきかを考える場所』である」(福武総一郎)
「瀬戸内の直島を、世界に誇れる自然と文化の島にしたい」(同上)
「どこにもない特別な場所をつくる」(秋元雄史、「地中美術館館長」)


 参考資料:直島・地中美術館(美術手帳2004年9月号、Vol.56, No.854)
直島通信(2004. 6)




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